フレンチを想えば・・・・。

なんかなぁ。俺も過去に東京でフレンチやってきたつもりだけど、昨今の東京フレンチって、
特にアホなジャーナリストどもがもてはやしているアッパーなフレンチって、やたら演出が過ぎている気がしてならない。
本当に美味いか?必要か?をよく考えた方がええよ。

その瞬間は、素晴らしい、斬新かもしれんけど、それを10年いや、3年続けたら、どうなるん?
せいぜい1年でネタが尽きて、1年半で客に飽きられて、2年で相手にされんくなるじゃろ。
食べる方ももう少し、勉強するべきじゃないか? 今回の震災でいろんな意味で、そしてジャンルで
、いろんな事がリセットされている気がする。当然、「食」も考え直す時が来てるんじゃないか?

 ある意味、飽和経済の結果として、もてはやされた日本人にとっての非日常的な贅沢食事としてのフレンチもスペインのとある料理人の出現をきっかけに化学調理を皆が継承し、実行し始め、どの料理人の作る皿も、どのメディアの騒ぎ立てる料理も、見た目の美しさと薄っぺらいカッコよさ、料理本を何度もおさらいしまくった結果、究極、極限に一片通りで、それを当事者たちも理解していながら、知らぬふりをし、単なるウケ狙いと、
売上至上主義のもとに、どんどんエスカレートし、終いには、使ってる食器まで同じものになっている。


おそらく今後、フレンチもこのままいけば、最終的にはストローでチューチュー吸いながら食べる宇宙食くらいまでイッテしまうだろうが(もう近い所まで行っている?)、一部の、優越感と自他差別観にしか価値を見出さない体験自慢公表至上主義人間にはウケるかもしれない。

「食事」とは、特に「外食」とは基本的に場と時間と同席する人間との関係を楽しむものであり、それでなくとも高い金を払って、食べた物をいちいち写真に収め、家に帰って、PCを立ち上げ、利益追求型の一部のグルメサイトの策略にまんまとはまり、一(いち)アホな料理評論家になったような気分で、普段使わない言葉で自己中心的な言葉を、それも読んでくれるであろう相手の顔をイヤラシく想像しながら、評価しまくる。


まさに政治も経済も、日本国(民)全体が、復帰、復興をしようとしている中、もう一度我々も「食」の扱い方を考えるべきではないか?飽食の時代である事には変わりはないだろうが、「食べる」と言う事に、スペクタクルだけではない、もっと熟成した日本独自の食文化をそろそろ築いて行くべきではないだろうか?

自分の中では今はフレンチの外にいる一人の料理人として今回、「想う」フレンチの現状を素直に述べてみた。

30年近くフレンチをひたすらやって来た都志見セイジが言う言葉だから、なおさら再塾考する価値はあると思うが。

最後に、このブログを読み直して、はっと気付いたが、何処かの無責任にも、店を酷評しまくるしか殆ど脳がないアホなブロガーどもの言葉に似ているか?とも反省したが、自分はまさに店側にいる人間であるから、客の立場ではない事は、全く趣旨の違うものであるので混同しないで頂きたいし、全くレベルの違う話である。

自画自賛するつもりはとうてい無いが、一人でも多くの”真”に「食」に取り組む人たちに
読んで頂き更には共感してもらえれば幸せである。

以上。
by seijitsushimi | 2011-05-09 00:06
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